こんばんは。
壮絶 反抗期の子どもをもつ【 母の叫び 相談室 】
高橋肖鳳です。
今日は 『 地震国 日本 』
お話しいたします
◆ 2011年3月11日 東日本大震災
3月11日
私は仙台、松島におりました。
あの日のことは生涯忘れないと思います。
午前中に遊覧船にも乗り
船を囲むようにかもめがついてきて
下から見たかもめのおなかが可愛かった。
海岸沿いのお土産屋さんが海から近かった
小さな島がたくさんあって人が住んでた
古い木造のお土産屋をみていた
お婆さんと小さい女の子。
海岸沿いを行く、60代くらいの男女の団体
岩手の方から皆さんでいらしたと
「何十年ぶりだ」 話されていました
海外からの観光客もいました
あの日 粉雪が舞い寒かったんです。
海岸沿いを歩いて
遅めのお昼におそばを食べました
もう少しお散歩しようかと思ったのですが
「何だか やだ…。」 娘が言い
それで高台のペンションに戻ってしばらくして
地の底からゴーゴーという唸りが聞こえ
地面ごともの凄い大きな揺れに襲われました
私は阪神・淡路大震災の時にも大阪にいて
あの震災は真冬の朝方で火事の被害もひどく
戦場のようでした。
着替え中の服とバッグだけを持って
フロントへ駆け上がりました
高台のペンションでした
松島の海が眺められる地下2階の部屋でした。
大きな鉄の扉が閉まる!!!
思ったので全速力で走って扉を抑え
家族が来るのを待ってフロントへ走りました。
粉雪が降っていて地面は濡れていました
みんな靴下のまま外へ。
フロントの女性が顔を真っ青にしている
子どもが海辺の保育園にいると
夜になって女性は
ふたりのお子さんを連れていました
メイン通りは車で大渋滞
女性はペンションの裏側から反対の道を下り
保育園に行くことができたそうです
園児たちがぷかぷかと浮いている
先生方が必死でつかんだと。
小さい女の子はずぶ濡れで泣いていました。
ペットショップのわんちゃん達も
ペンションに逃げてきて
寒い寒い玄関のところに並んでいました。
水道もガスも電気も止まり真っ暗な中
地震は続き
私たちは怖くて怖くて…
幸い、宿泊した建物は壁が落ちる、
壁に亀裂が入る程度の破損ですんだのです
津波がきて
屋根の上でお母さんがひとり、
夜を過ごしたという話し
寝たきりのお父さんは
家ごと流されたという話し
松島から仙台まで電車で30分くらい
ようやくタクシーに乗せてもらって
仙台に出るのに四日かかったのです
仙台に行くと
長距離バス50人乗りに1000人待っている
仙台ではみんな野宿していました。
コンビニの品物は空っぽ
私たちはビジネスホテルの方が
予約を入れない特別な部屋を与えてくれて
何とか生きることができました。
鉄道も道路も破壊 帰るすべがありません
地震があってすぐ大阪にいる母から電話が入り
返事ができました
その後からは電話はつながらなかった。
1週間してようやく個人のタクシーの方に偶然会い
山形方面を経由し、ガソリンを確保し
福島内陸まで送ってもらい
友人が車で迎えに来てくれて
20時間ほどかかり
横浜の自宅に戻ることができました。
松島では携帯の電池はなくなっていくし
現地では一切情報が入ってこなかった
本当に不安でした
もの凄いパワーの地震
地震があった瞬間、日本列島真っ二つに割れた
思いました それほどの揺れだったのです。
それが熊本・九州ではずっと続いている
本当に辛いです。
◆ 熊本県 九州地方の皆さま 心よりお見舞申し上げます
熊本県 九州地方の皆さま
心よりお見舞申し上げます
早く地震、止まってほしい
被害がこれ以上大きくならないことをお祈りします。